お問合せ 削除依頼


画像クリックで原寸大表示
投稿日:2016/04/06 14:24

羽田空港

投稿者 [no name]      
投稿一覧

プロフィール


すべての投稿

トップページ


  

ツイッター、フェイスブックでログインする事により投稿できます



東京国際空港(とうきょうこくさいくうこう、英語: Tokyo International Airport)は、日本東京都大田区羽田空港にある日本最大の空港である。空港法第四条に定める「国際航空輸送網又は国内航空輸送網の拠点となる空港」であり、同国の国土交通大臣が設置・管理する通称の羽田空港(はねだくうこう)は、飛行機ではなく地名に由来する。
2010年10月21日に国際線ターミナルが開業し、同年10月31日から国際線定期チャーター便として運航されてきた便は定期便に格上げされた。2014年現在、羽田空港は世界の空港の中で4番目に旅客数の多い空港となっている。
1931年8月25日に「羽田飛行場」として開港以来、日本最大かつ東京、首都圏を代表する空港である。
2010年1月現在、国内線主体でありながら利用者数は世界でも有数の規模を有する。全日本空輸と日本航空、スカイマークなどの国内線ハブ空港である。ただし、純粋な国内線専用空港だったことは一度もない。詳細は「国際線の就航状況」の節を参照。
年間の航空機発着回数は約38万4000回、航空旅客数は約6,670万人[3]でそれぞれ国内最大(2位はいずれも成田国際空港)。航空貨物取扱量は約84.4万トン[3]で国内第2位(1日あたり約2246トン。1位は成田国際空港)。
皇族や内閣総理大臣などが政府専用機を使用する場合や、国賓や公賓が専用機や特別機で訪日する際はほとんどの場合、羽田空港を使用する[4]。これは羽田空港の方が成田空港より都心に近く、沿道の警備が容易なためである。このため、専用施設としてVIP機専用スポット (V1・V2) や旅客ターミナルビルとは別棟の中に設けられた貴賓室がある。
定期乗り入れ航空会社以外のチャーター便やビジネスジェットの乗り入れも行われている。
日本では数少ない24時間運用が可能な空港の1つである[5]。深夜から未明の時間帯にかけては国際線や貨物便[6]が発着するのみとなっている。国内線の各旅客ターミナルビルの開館時間は、定期便の運航時間帯に合わせ、第1旅客ターミナル・第2旅客ターミナルとも5:00 - 24:00ごろとなっている。国際線ターミナルビルの開館時間は24時間である。
空港の設置および空港機能の管理・運用は国土交通省東京航空局東京空港事務所が行ない、国内線各ターミナルビルの管理・運用は日本空港ビルデング株式会社が行なっている。2010年10月に開業した国際線地区については、日本の空港としては初のPFI事業として国との間で事業契約を締結した民間事業者が建設・管理・運用を行っており、国際旅客ターミナルビルについては東京国際空港ターミナル(TIAT=ティアット=)株式会社、国際貨物ターミナルビルについては東京国際エアカーゴターミナル株式会社、国際線地区エプロンについては羽田空港国際線エプロンPFI株式会社が事業を行っている。
東京空港事務所においては、羽田空港に関する飛行場管制業務のほか、羽田空港、成田空港、下総飛行場、木更津飛行場、館山飛行場に関する進入・ターミナルレーダー管制業務を実施している。
また、伊豆諸島の各小規模空港(リモート空港)に関する情報提供等を実施している。なお、コールサインについて、新島空港、神津島空港は「伊豆リモート」、三宅島は「三宅リモート」を使用する。
羽田空港は東京23区内にあり利便性が高い反面、騒音問題・増便規制・小型機の乗り入れ禁止などのいわゆる羽田空港発着枠問題といった緊急に解決が必要な問題が存在する(航空法上の混雑空港にあたる)。これらの問題を解決するため、現在までに沖合展開事業や再拡張事業、横田空域の調整が行われている。空港騒音に関しては羽田空港一帯(羽田空港一丁目 - 羽田空港三丁目、これらに接する地先及び水面)のみ騒音規制法(昭和43年法律第98号)第3条第1項の規定に基づき、大田区長が指定する地域から除外されている。
羽田空港の敷地面積は約1,522ヘクタール[7]、大田区全体の面積のおよそ3分の1を占める。
2014年、スカイトラックスが実施した「Global Airport Ranking 2014」において日本の空港として初めて世界最高水準の5つ星を獲得した[8][9]。

歴史[編集]
羽田飛行場開港[編集]

羽田運動場

エプロンと滑走路(1933年)

ターミナルおよび日本航空輸送の格納庫。左は同社のフォッカー スーパーユニバーサル(1937年)
開港する前の旧地名は東京府羽田江戸見町(鈴木新田字江戸見崎)、羽田穴守町、羽田鈴木町(鈴木新田字宮ノ下・辰巳ノ方・巽ノ方・明神崎・鈴納耕地・堤外東南)、羽田御台場、鈴木御台場(鈴木新田字御台場・御台場耕地・辰巳島)、猟師町御台場(羽田猟師町)であった。
1917年には航空の父とよばれた長岡外史が所沢につくった空港につづき、日本飛行大学校がこの地に開校、「羽田飛行場」と呼ばれた飛行訓練施設が置かれた[10]。飛行訓練が行われたものの、民間の旅客機の離着陸はまだ行われていなかった。また、大正時代には羽田運動場が羽田飛行場の近隣に存在したが、後に空港の拡張に伴い運動場用地が買収されている[11]。1923年の関東大震災の時に、鉄道が壊滅的被害をうけ、飛行機で物資を届けることを長岡外史が思いつき、現在の羽田飛行場のサイズに拡張整備された。同じ頃、航空事故安全のための神社も建立された。
正式開港[編集]
1931年8月25日に、羽田飛行場のある東京府荏原郡羽田町鈴木新田字江戸見崎(国際線ターミナル地区付近 翌年に東京府東京市蒲田区羽田江戸見町となる)に日本初の国営(逓信省管轄)民間航空専用空港東京飛行場(羽田飛行場)が正式に開港した[12]。現在の旧整備場地区に位置していた。日本の民間航空黎明期における重要な飛行場であった(面積53haに全長300m、幅15m滑走路1本[12])。ただ、滑走路以外には草が生い茂っていた上、無線による管制が行われていないため管制塔もなかったなど、設備は簡素なものであった[12]。記念すべき第1便は日本航空輸送の大連行き定期便であったが、当時の航空運賃は非常に高額で乗客がいなかったため、代わりに大連のカフェに送る松虫や鈴虫6000匹が載せられた[12]。
ハブ空港[編集]
1933年には、当時「空の都」として名高かった北多摩郡立川町、砂川村の立川飛行場の民間航空部門が移駐してきた。この頃には日本航空輸送や満州航空のハブ空港となり、大阪や福岡、台北や京城などの国内主要都市に向けた国内線のみならず、満州国や中華民国、タイ王国やフランス領インドシナへ向けた国際線の運航も活発化し、これに併せて「東京国際飛行場」と呼ばれるようになったほか[13]、ターミナルやハンガー、滑走路や各種航法設備などの充実が行われた。
また、1930年代後半に同盟関係を結び、その後第二次世界大戦では枢軸国同士として一緒に戦うこととなったドイツとの直行便の就航も計画されたが、その後の国際情勢の悪化のためにこれは実現されなかった。しかし大日本航空(日本航空輸送の後身)が就航していたタイのバンコクで、ヨーロッパ各都市へ向かうイギリスのインペリアル航空などの国際線と接続することとなった。
この様な国内外の民間航空の発展に伴い、北東アジアにおけるハブ空港としての発展が期待され、1938年に第一次拡張(面積約22万坪、滑走路を600 mから800 mへ延長)し[14]、1939年には2本目の滑走路が完成した。同時にターミナルの増築や航法支援施設の整備も進められた。また1937年5月には欧亜連絡飛行を行った「神風号」の帰着地に、同月にはのちに公認世界記録を樹立する「航研機」の初飛行場所に、1939年8月には世界一周飛行に向かった「ニッポン号」の発着地となるなど、日本の航空史に名を残す偉業の舞台となった。
戦時下[編集]
1937年7月に始まった日中戦争以降も民間航空輸送は引き続き行われているが、戦時体制のため日本航空輸送は国際航空などと合併し国策会社の大日本航空となり、日本国内における航空輸送事業は同社によって統一営業されることとなった。
1940年9月には国産旅客機三菱 MC-20の完成披露式が、同月28日の航空日(のちの空の日)には朝日新聞社主催の航空ページェントが開催された。後者ではモーリス・ファルマン機や鹵獲機I-16が飛行し、また陸軍航空部隊の戦闘機・爆撃機によるアクロバット飛行・展示飛行や東京湾上での実弾演習が披露されている。なお、航空ページェントを報じる10月1日公開のニュース映画『日本ニュース』第17号では本地を「羽田の東京空港」と紹介している。
しかし1941年10月には海軍航空要員の訓練を行う霞ヶ浦海軍航空隊の一部が分遣隊として移駐[15]、軍用飛行場としても使用されることとなり、同年12月に太平洋戦争が勃発すると日本の民間航空は事実上停止した。これ以降終戦までの間は、国内線や同盟国の満州国やタイ王国の他に、香港やジャカルタ、マニラやシンガポールなどこれまでイギリスやアメリカ、オランダの植民地であったが、南方作戦で日本軍が占領した東南アジア各都市や、ニューギニアのウェワクやラバウルといった日本軍勢力圏へ向けて福岡第一飛行場をハブとし、陸軍の特務航空輸送部が定期便を就航させている(徴用された大日本航空が委託運航)。
また、南方作戦で鹵獲されたアメリカ軍や中国軍、オランダ軍やオランダ領インド航空のボーイングB-17やカーチス・ライトP-40、ダグラスDC-5などの展示会も行われた。大戦末期には日本本土を空襲するアメリカ軍機の爆撃目標となったため、空港内外に陸海軍が高射砲・高射機関砲を配置しこれに備えた[11]。
連合国管理下[編集]

西側の環八通りからの入口脇に置かれている大鳥居

駐機するアメリカ空軍のC-97輸送機(1952年)

日本航空のマーチン2-0-2と客室乗務員(1952年)

英国海外航空のコメットMk.I
1945年8月の終戦後は、日本を占領した連合国軍の一部であるアメリカ軍の管理下に置かれ、ハネダ・アーミー・エアベース(Haneda Army Airbase、羽田陸軍航空隊基地)と呼ばれることとなり、同空港を首都圏における主要基地の一つとして用いるため拡張を計画し、1946年6月までに完成、旧A滑走路(2145m×45m)と旧B滑走路(1650m×45m)が新設された。
なお、この拡張工事に際し1945年9月21日にアメリカ軍が警察を通じて拡張地区内の周辺住人に48時間以内の強制退去を命じた[16]。当然のことながら、退去の対象となった建造物は軒並み撤去されたものの、穴守稲荷神社の大鳥居だけは頑丈にできていたため撤去できず、更地(後に駐車場となる)に残された[17]。この大鳥居は、沖合展開事業に伴う新B滑走路の拡張計画にて障害となるため撤去の計画が出ていたが、移転費用を近隣住民を主体とする有志が負担すると申し出たことにより、1999年2月に800メートルほど南の現在位置に移される[18][19][20]。連合国の占領下の日本においては、民間航空を含むすべての日本籍の航空機による活動が禁止されていたため、当時はアメリカやイギリス、フランスなどの連合国の軍用機やパンアメリカン航空やノースウエスト航空、英国海外航空などの連合国の航空会社の乗り入れのみに使用されていた。
なお1946年3月に、イギリス連邦占領軍のサー・セシル・バウチャー少将が、英国海外航空のショート・サンドリンガム「プリマス型」飛行艇で運航されていたイギリス南海岸のプール(Poole)と香港を結ぶ路線を延長し、東京国際空港沖へ乗り入れるべく連合国軍最高司令部のダグラス・マッカーサー最高司令官に求めたが拒否された[21]。このため、1948年3月19日以降暫くはイギリス連邦占領軍の拠点である岩国基地へ乗り入れていたが、その後羽田空港への陸上機での乗り入れが許可された。
その後サンフランシスコ講和条約が締結され、連合国による日本占領が終結に近づいた1951年10月25日には、日本の航空活動が解禁されたことを受けて、第二次世界大戦後初の国内民間航空定期便として日本航空のマーチン2-0-2型機「もく星号」が、羽田空港 - 伊丹空港(大阪) - 板付空港(福岡)間の定期旅客運航を開始した[22]。ただし、運航開始時点ではいまだ占領下であり、運航・整備をノースウエスト航空へ委託しての出発となった[22]。
返還以後(東京国際空港)[編集]
ウィキソースに東京都大田区羽田町に所在する飛行場を東京国際空港と呼称する件の航空庁告示文があります。
翌1952年7月1日[14]には地上施設の一部がアメリカ軍から返還され[22]、同日に現名称の「東京国際空港」に改名[23]。また同月には世界初のジェット旅客機であるデ・ハビランド DH.106 コメットMk.Iが英国海外航空によって初飛来し、その後ロンドンのヒースロー国際空港との間に南回りヨーロッパ線で定期就航した。
翌1953年には日本航空のダグラスDC-6によって、日本の航空会社による第二次世界大戦後初の国際線定期路線の就航が開始された。この頃から日本の経済状況が回復してきたこともあり、国内線の乗客が急増したのみならず、スカンジナビア航空やスイス航空、カナダ太平洋航空やカンタス航空などが就航するなど外国航空会社の就航開始が相次ぎ国際線の旅客も急増した。これを受け、全面返還に先立つ1955年5月、現在の国際線ターミナルの西側・現B滑走路の南端付近に近代的な設備を持つ新しい旅客ターミナルが開館し、8月には旧A滑走路が2550mに延伸された[24]。その後1958年に全面返還され、1961年には滑走路が3,000mに延伸された[25]。
混雑[編集]

共同運行する日本航空のロゴが入ったアエロフロートのTu-114
その後1960年代に入ると、日本の空の玄関口、首都の空港として日本航空や外国航空会社によりダグラスDC-8やボーイング707、コンベア880などの大型ジェット旅客機が次々と就航したほか、ルフトハンザドイツ航空(1961年)やガルーダインドネシア航空(1962年)、ユナイテッド・アラブ航空(現在のエジプト航空、1962年)やアエロフロート航空(1967年)、マレーシア-シンガポール航空(現在のマレーシア航空とシンガポール航空、1968年)など新規乗り入れ航空会社が相次ぎ、さらに地方空港の整備が進んだことで地方路線が増加した。
これを受け、1964年に行われた東京オリンピックにあわせ空港設備の整備拡張が行われた。まず、旅客ターミナルが増築(東京五輪後も度々行われた)された他、旧C滑走路(3150m×60m)の新設[25]、東京モノレールの乗り入れや貨物や検疫施設の拡充などが行われ、8月には旅客ターミナル向かいに初の空港敷地内ホテルである羽田東急ホテルがオープン。その後1971年に旧B滑走路が2500mまで延伸[25]し、旧羽田空港が一応の完成を見た。
しかし、同年に一般旅行者の海外旅行自由化が行われたことや、地方路線の機材大型化やジェット化が進んだことなどもあり、高度経済成長期真っただ中の1960年代後半には、増大する一方の離着陸をさばくのが困難になり、ターミナル寄りの旧A滑走路 (15R/33L) の使用を停止して駐機スポットにするなどの策も講じたが、それでも増加する乗り入れ機の対応が難しくなった。また、旧A滑走路の使用停止により発着便の増加が事実上不可能になった上に、旅客ターミナルにボーディングブリッジが設置されていない他、旅客ターミナルの混雑や貨物ターミナルの処理能力も限界に達し、抜本的な解決を望む声が多くなった。
この様な声に対し当時の運輸省は羽田空港の沖合展開(更なる埋め立て)を検討したものの、当時の港湾土木技術では沖合移転に必要な埋め立て工事には多大な困難が予想されたことや、アメリカ空軍横田飛行場の管理していた東京西部空域との兼ね合いもあり、首都圏第二空港の開設を決定した。その後候補地の策定を行い、1966年(昭和41年)千葉県成田市に新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設が始まる。
成田空港完成[編集]

日本航空のボーイング747
1970年には、パンアメリカン航空と日本航空が相次いで当時の主力機材であったボーイング707型機やDC-8型機の倍以上の座席数を持つボーイング747型機を就航させ、ノースウエスト航空や英国海外航空、エールフランス航空やKLMオランダ航空などの他の乗り入れ航空会社もその後を追ったものの、ボーディングブリッジを備えたスポットがわずか3か所しかないなど、大型機の就航に施設拡充が間に合わないような状況は続いた。
その上、日本の高度経済成長が続いていた1970年代中盤には、日本航空がボーイング747型機を国内線に投入したほか、国内線のみを運航する全日本空輸や東亜国内航空もロッキード L-1011 トライスター型機やエアバスA300型機などのワイドボディ機の就航を開始したことから、国際線のみならず国内線ターミナル、貨物ターミナルの処理能力も限界に達してしまう。
そして1978年5月20日に成田空港が開港すると、外交的問題から成田空港への移転を行わなかった中華民国(台湾)の中華航空(現・チャイナエアライン)を除く全ての国際線が成田に移転した。なお、その後1990年代に就航開始した中華民国のエバー航空も羽田空港を利用することとなった。詳細は「国際線の就航状況」の節を参照のこと。
沖合展開事業の進展[編集]

上空からの画像(解説付き画像)
かつてのターミナルは現在地より陸地側、今のB滑走路の南端付近にあった。3本の滑走路はターミナルの北側にB滑走路(04/22)が、ターミナルの東側にA滑走路(15R/33L)とC滑走路(15L/33R)のクロースパラレルが配置されていたが、1964年の海外旅行自由化以降は航空機の利用客が急増し、便数も増加できない上に国際線・国内線が同居する状態では発着する飛行機の数をさばききれなくなり、空域では航空機同士が急接近することが常にあった。このため、1970年代には旧A滑走路を事実上閉鎖して駐機場を拡張した。
新設された新東京国際空港に国際線が移転した後も、国内線の需要の急激な増加が続いたため、手狭なターミナルと2本の滑走路では、首都空港としてのキャパシティは既に限界を超えていた。滑走路は現在よりも市街地に近かったため、騒音に対する苦情も絶えなかった。これら空港機能の改善および騒音対策を目的として[26]1984年1月から東方の海面を埋め立てて空港施設を移設・拡張するという沖合展開事業(通称: 沖展)が行われた[27]。
沖展に不可欠な埋め立て工事は、脆弱な海底地盤により難航した。沖展用地は1975年度より東京港の浚渫土や首都圏の建設残土を処分する残土処理場であり、長年のヘドロが堆積した「底なし沼状態」であったことから、重機はおろか人間も立ち入れない場所が多かった。この場所は含水比率100パーセント以上の超軟弱地盤であったことから工事関係者の間では「(羽田)マヨネーズ層」と呼ばれ始め、工事関係書類に使われたため学名にまでなりかけたが、後にマヨネーズ製造業者から抗議があったため名称が変更されている[28]。対策としてチューブの集合体の板を地中深く差し込むことで水を抜くペーパードレーン工法や、同じく砂の柱を地中深く構築することで水を抜くサンドドレーン工法、沈下する地盤をジャッキの油圧で持ち上げ空洞を特殊なコンクリートで固める工法などを駆使し、計画から完成まで約20年の歳月を経て完成した[29]。

羽田空港周辺の1984年撮影の空中写真。
沖合展開事業埋め立て工事が行われている。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。1984年撮影の15枚を合成作成。
この埋め立てによって新たに生まれた土地は広大なもので、これがすべて大田区に組み込まれたことから、世田谷区は長年保っていた「東京23区で面積最大」という地位を大田区に譲ることになった。
1988年には、旧C滑走路の450m東側に現A滑走路が完成した。
1993年9月27日には、約29万平方メートルの延べ床面積に、24基のボーディングブリッジを持つ新国内線ターミナルビル(第1旅客ターミナルビル)が供用開始され、チャイナエアラインを除くすべての航空会社が移転した[30]。同ターミナルを運営する日本空港ビルデングはこれにビッグバード (Big Bird) という愛称をつけたが、今日ではこれが羽田空港旅客ターミナルの総称としても用いられている。
2004年12月1日には、約18万平方メートルの延べ床面積に、15基のボーディングブリッジを持つ第2旅客ターミナルビルが供用を開始した[30]。全日本空輸グループ(以下「ANAグループ」)および業務提携している北海道国際航空(現・AIRDO)の国内線業務が同ターミナルに移転した。12月21日には第1旅客ターミナルビルに残っていた日本航空グループ(以下「JALグループ」)が、従来使用していた同ターミナル南ウイングに加え、全日空グループなどが使用していた北ウイングの使用を開始。その後2006年4月1日より、ANAグループと業務提携しているスカイネットアジア航空(現・ソラシドエア)も第2旅客ターミナルに移転し、2014年10月現在は、
第1旅客ターミナルはJALグループ、およびスカイマーク、スターフライヤー(北九州線)
第2旅客ターミナルはANAグループ、およびAIRDO、ソラシドエア、スターフライヤー(関西線・山口宇部線・福岡線)
のそれぞれ専用ターミナルとなっている。ただしANA便名でもスターフライヤー運航のコードシェア便である北九州線は第1旅客ターミナルから出発・到着する。
各ターミナルのシンボルカラーも、第1ターミナルはJALグループのコーポレートカラーである赤色、第2ターミナルはANAグループのコーポレートカラーである青色となっている。JALグループでは広い第1ターミナルを活かし、国内線方面別チェックインを行っている(就航路線を参照)。
なおこの事業は3期に分かれ、2013年4月の旧暫定国際線ターミナルビル跡地への第2旅客ターミナルビル南ピア71 - 73番スポット増築部竣工により終了した。
第1期(1984年1月 - 1988年3月)
A滑走路移転・拡張(1988年7月供用開始)
第2期(1987年9月 - 1993年8月)
西側地区旅客(→第1旅客)・貨物ターミナル・新整備場移転・新設(1993年9月供用開始)
管制塔・運輸省(国土交通省)航空局棟移転(同上)
構内道路新設
首都高速湾岸線延伸(1993年9月開通)
東京モノレール羽田線(現・東京モノレール羽田空港線)西旅客ターミナルビル(新)羽田空港駅(羽田空港第1ビル駅)まで延伸(同上)
第3期(1990年5月 - 2013年4月)
C滑走路移転・拡張
1996年空の日には空港イベントの一環として供用前のC滑走路が一般公開された。
1997年3月供用開始。これ以降、2本の平行滑走路による同時離着陸が可能になった(それまでの平行滑走路でも同時に離陸と着陸を行うことは可能であった)。
暫定国際線旅客ターミナル(1998年3月20日供用開始)
京急空港線羽田空港駅(羽田空港国内線ターミナル駅)まで延伸(1998年11月開通)
B滑走路移転・拡張(2000年3月供用開始)
第2旅客ターミナルビル(2004年12月1日供用開始)
東京モノレール、羽田空港第2ビル駅まで延伸(2004年12月1日開業)
空港連絡道路(2004年12月1日供用開始)
第1旅客ターミナルビル北ウイングJALグループ利用拡張(2004年12月21日開始)
第2旅客ターミナルビル南ピア(2007年2月15日供用開始。66 - 70番スポット)[31]
第2旅客ターミナルビル第4駐車場 (P4) 立体化(2010年8月14日供用開始)
第2旅客ターミナルビル本館南側(2010年10月13日供用開始)[32][33]
第2旅客ターミナルビル南ピア71 - 73番スポット(2013年4月8日供用開始)[34][35][36][37]
国際チャーター便就航[編集]

暫定国際線ターミナル(2010年10月20日閉鎖)
第2旅客ターミナルビルの供用開始に先駆け、1998年3月20日に第2旅客ターミナルビルの南寄りに暫定国際線旅客ターミナルビルが完成した[38]。2002年には早朝深夜枠を利用したグアムやアジア各国へのチャーター便の運航が始まる。4月18日に成田空港のB滑走路が暫定供用を開始したことに伴い、チャイナエアラインとエバー航空は成田空港発着となる。
これに伴い、浮いた発着枠が活用されたのが同年開催された2002年サッカーワールドカップ日韓大会開催に伴う日韓間の航路であった。
韓国の首都・ソウルにおいては、ソウル市内にある金浦空港に代わり、2001年に国際線空港として新たに仁川国際空港が開港し、金浦空港に発着する国際線は全て同空港に移転し、金浦空港は事実上国内線専用空港となった。
この仁川国際空港は、国際的には行き先こそ「ソウル」と案内されることが多いが、実際にはソウル市内ではなく仁川市市内に存在する上、当時はソウル市内とのアクセスが遠く不便であるなど、これらの点においては、日本の羽田空港と成田空港との関係によく似た状況にあった。
そこで、このワールドカップ開催期間中およびその前後に、日韓両国の首都かつその中心部から程近い場所に位置する羽田空港と金浦空港を結ぶチャーター便を開設させた。このチャーター便が好評を博したため、翌2003年からは「定期チャーター便」という定期便に限りなく近い方式で同ルートが開設された。
さらに、2007年には同じく定期チャーター便方式で、羽田と中華人民共和国の上海虹橋国際空港の間に、2008年には香港国際空港との間に、2009年には北京首都国際空港との間に航路が開設された。
B滑走路高速離脱誘導路[編集]
2009年7月、B滑走路で、着陸した航空機が速やかに滑走路から退避するための高速離脱誘導路と、それに接続する誘導路が供用開始された。高速離脱誘導路とは、航空機が比較的高速のまま滑走路から平行誘導路へ移動できるように滑走路に対して斜めに配置するものであり、着陸機の滑走路占有時間が短くなることで発着回数を増加させ空港処理能力を向上させることができる。2009年当時羽田空港の出発機は1時間あたり32機、到着機は28機と到着機の方が少なかったが、到着機が速やかに滑走路を脱出する事で到着機を1時間あたり29機へ増やすことが可能とされ、これにより1日あたり14便までの増枠ができると見込まれた。この工事と並行してA・B平行誘導路を結ぶ誘導路も新設した。
再拡張事業[編集]
航空需要の増大から、羽田空港においては、ラッシュ時は2分間隔で発着が行われるなど、1990年代には発着能力が限界に達しており、増便は困難な状況になっていた。限られた発着枠でできるだけ輸送量を大きくするため、羽田空港では日本の空港としては唯一、小型機の乗り入れが原則として禁止されており、その結果、特に地方空港の利便性が低下し不満が高まっていた。そこで2000年9月から、首都圏第3空港調査検討会により、羽田空港の再拡張や、首都圏に羽田・成田に次ぐ第3の空港を設置し、航空需要の増加に対応する案が検討された。その検討の結果、日本国政府は2001年12月19日に、第3空港の設置より優位性のある羽田空港の再拡張を優先的に行うことを決定し、以下の事業が行われた[39]。
D滑走路の建設[編集]

建設中のD滑走路(桟橋部)
D滑走路は、神奈川県寄りの多摩川河口付近の海上に、従来の埋め立てとジャケット工法による桟橋[40] を組み合わせた、世界初の人工島と桟橋のハイブリッド滑走路として、既存のB滑走路とほぼ平行に建設された。このD滑走路の設計耐久年数は、100年に設定[41] されている。
設計・施工・運用にあたっては制約条件がいくつかあり、対策が行われた。
多摩川の流れを遮らないこと。→南側1100mおよび現空港との連絡誘導路を桟橋形式にして、川の流れをせき止めないようにした。
既存の滑走路の離着陸を妨害しないように工事をすること。→進入コース直下での大型クレーンによる施工など、制限表面に抵触する作業は空港運用時間外の夜間に行い、高さを低く改造した作業船も用いた。
東京港に入出港するタンカー、貨物船などの安全な航行を妨害しないようにすること。→空港東側にある東京港第一航路を一部移設した[42]。また、工事期間中は東京航行安全情報センターを設けて一般船舶が工事区域に侵入しないように警戒その他の業務を行った。
羽田空港沖は、江戸前マアナゴなどで有名な漁場である。滑走路の建設工事の影響により、漁獲量減少が懸念されるとして、地元漁協と国土交通省の漁業補償交渉が難航した。当初、同省は閣議決定されていた2009年末の供用開始に向け、2006年春頃の着工を目指していたが、結果的に目標は達成できなかった。工事は2007年3月31日に開始され、5月20日に関係者による着工記念式典が行われた。同省は、当初の計画に間に合わせるために工期短縮の方法などを模索した結果、2010年10月21日に完成し、供用を開始した。
このD滑走路の設置計画当初は既存のB滑走路と完全に平行な滑走路の建設を予定していたが、南風・荒天時に千葉県浦安市の市街地上空を通過すること、また東京ディズニーリゾートと直線距離300mの沖合いを通過することが問題視され、滑走路の方位を時計回りに7.5度変更した[43]。この変更により川崎市にある東京湾アクアラインの換気塔が制限表面上に出るため、この換気塔は頂部の装飾を改修(頂部を取り払う)した。
この滑走路の整備により、発着枠が段階的に引き上げられる。引き上げの最短の見通しは以下の通りである[44]。
再拡張以前
昼間30.3万回
(別途、深夜早朝時間帯においてチャーター便等が運航)
2010年度(10月時点)
昼間33.1万回+深夜早朝4.0万回
(うち国際線は昼間3万回+深夜早朝3万回)
2011年度中:昼間35.0万回+深夜早朝4.0万回
(昼間1.9万回の増枠はすべて国内線)
2013年度中:昼間40.7万回+深夜早朝4.0万回
(ただし、D滑走路を含めた新しい運用方式の慣熟が前提条件。場合によっては、部分的増枠ないし増枠時期の遅れもありえる。)
なおエアバスA380は、後方乱気流が大きく[45]、後続機との飛行間隔を広げざるを得ないことから、昼間時間帯の乗り入れは認められないとされた[46]。
国内線については発着枠の増加により、より小型の飛行機を用いた多頻度運航化が可能となる。国際線については、国土交通省は将来の国内航空需要に対応した発着枠を確保した後の余裕枠を活用して年間6万回程度(短距離便と、深夜早朝時間帯の中・長距離便がそれぞれ3万回、1日約80便)の就航が可能になるという見解を示している。おおむね就航可能な国際定期便については、短距離便でソウルや釜山、台北、北京、上海など。中・長距離便で北アメリカやヨーロッパ、東南アジアなどの主要都市である。当初は羽田発着国内線最長距離の石垣空港間1,200マイル (1,947 km) 以内の区間を目安としていたが、2008年4月1日には香港線が開設され既にこの目安を超えていた。
ただし、2010年5月17日の、国土交通省成長戦略会議最終報告では、国際線のアジア近距離ビジネス路線限定を廃止して、アジア長距離路線や欧米路線も含めた、高需要、ビジネス路線も発着できるルールに変更するとされている[44]。また、これを可能とするため、発着枠40.7万回+4.0万回が達成される時点で、今後の首都圏における国内・国際の航空需要の伸びを勘案しつつ、昼間時間帯の残り5.7万回の半分強に当たる3万回の発着枠を更に国際線に配分することを基本とするとした[44]。
新管制塔[編集]

新管制塔
D滑走路は旧来の管制塔からかなり離れており、旧管制塔から管制官が目視したとき、安全上規定されている視野角を部分的に確保することができず、また、新設される誘導路の一部が建物の陰に隠れてしまい、機体を目視で確認できない部分が生じてしまう。そこで新たに旧管制塔の南東側、第2駐車場に隣接する「バスプール」のエリアに世界で3番目・国内最高の高さとなる116mの新管制塔を建設し、2010年1月14日に運用を開始した。これにより、それまでの旧管制塔の飛行場管制室は供用開始からわずか16年で役目を終えたことになるが、新管制塔供用開始後も撤去されずバックアップ用の予備管制塔となった。なお、新管制塔で新設されるのは飛行場管制室とその付帯設備だけで、ターミナルレーダー管制室や航空局庁舎は従来の位置のままである。
また、発着能力増大に伴いグランドコントロールだけでは対処飽和になる可能性が出てくることから、グランドコントロールとは別にエプロン地区のみを管制する「ランプ・コントロール」導入が考えられた。仮に導入された場合、これまでの旧管制塔は成田国際空港の旧管制塔のように「ランプ・コントロール・タワー」として利用することも検討された。
国際線地区[編集]

新国際線旅客ターミナルビル
A滑走路とB滑走路および環八通りに囲まれ、かつての国内線ターミナル(1993年まで)と国際線ターミナル(1998年まで)、日本航空のライン整備センターなどがあった区域に、新しい国際線旅客ターミナルビルと国際貨物ターミナル、エプロンなどを建設し、国際線地区としてPFI手法を用いて整備した。2008年4月8日に起工式が行われ、2010年7月末に完成し[47]、同年10月21日に供用開始された[48][49]。これに伴い、10月12日に旧・P5国際線駐車場が営業を終了し、10月20日に暫定国際線旅客ターミナルビルが閉鎖された[50]。
国際線旅客ターミナルビルは、5階建て延べ床面積約15万9000平方メートル(付属棟含む)のターミナルビルと6層7段の駐車場(約2300台収容、延べ床面積約67,000平方メートル)で構成される。ターミナルビルには、江戸の町並みを再現した商業ゾーン(4階「江戸小路」)や国内最大級の規模の免税店を設置して収益を確保する見通しである。国際旅客ターミナルビルの整備・運営は国内線ターミナルビルを運営している日本空港ビルデングを筆頭株主とする特別目的会社「東京国際空港ターミナル株式会社 (Tokyo International Airport Terminal Corporation, TIAT)」がPFI方式で実施している。
スポットは固定スポットとオープンスポットが各々10ヶ所設置されるのみである上、旅客ターミナルビルがA滑走路とB滑走路および環八通りに囲まれ、更なる拡張も難しいと考えられたことから、前原国土交通大臣が提唱した「羽田空港国際ハブ空港化」の実現には不十分な規模であるとの指摘もあった。
国際貨物ターミナルは、年間50万トンを処理する貨物上屋2棟・生鮮上屋・燻蒸施設などで構成される。国際貨物ターミナルの整備・運営は三井物産グループが設立した特別目的会社「東京国際エアカーゴターミナル株式会社 (Tokyo International Air Cargo Terminal LTD, TIACT)」がPFI方式で実施している。
エプロン・周辺道路などの整備は大成建設を筆頭株主とする特別目的会社「"羽田空港国際線エプロンPFI株式会社"」が実施している。
国際線ターミナルビルの開業に合わせ、同ターミナルへのアクセスとして、東京モノレール羽田線は一部ルートを変更し、ビルに隣接する形での新駅「羽田空港国際線ビル駅」を建設した。また、京浜急行電鉄空港線も、羽田空港駅 - 天空橋駅間のターミナルビル地下に新駅「羽田空港国際線ターミナル駅」を開業し、あわせて国内線ターミナルの最寄駅である羽田空港駅の名称を「羽田空港国内線ターミナル駅」に変更した。
羽田空港船着場の開設[編集]
観光面及び防災面から、国際線ターミナル近くに羽田空港船着場を開設した。
多摩川左岸に三愛石油株式会社が所有していたタンカーバースを譲り受け、2011年5月より旅客用に改修する工事を行い[51]、同年7月に利用開始された。その後、陸上部分の2期工事が行われ、同年11月30日に待合室施設などが新設され、完成した[52]。
再拡張後の整備・拡張[編集]
国内線第1ターミナルの整備[編集]
改装前
改装後
第1ターミナルの出発ロビー。改装前(左)と改装後(右)
2011年11月16日、国内線第1旅客ターミナルビルのリニューアル工事が完了した[34][53][54]。チェックインカウンターが並ぶ2階の出発ロビーの天井には、自然光を取り入れる開口部が設けられ、明るい雰囲気となった。また、保安検査場を通過した後の制限エリア内の商業施設を大幅に拡充したほか、屋上展望デッキも改装して航空機をより見やすくなるようフェンスを更新した[55]。
国際線ターミナルの拡張[編集]

拡張後の東京国際空港(2014年3月)
2009年10月13日、当時の国土交通大臣・前原誠司は地方空港から韓国仁川国際空港を経由した海外渡航が増加している現状を問題視。その原因とされている、国際線は成田空港、国内線は羽田空港とする「内際分離」の原則を改め、羽田空港と成田空港を一体的に運用し、羽田空港を24時間使用可能な国際ハブ空港とする方針を明かした[56][57]。この方針を受け、新設した国際線旅客ターミナルビルを2013年度をめどに、夜間駐機場として整備された北側エプロン方面へ延長増築し、搭乗口を増設する拡張計画が打ち出された[58][59][60]。
拡張部分についてもPFI事業として整備され、2011年6月21日、国土交通省と東京国際空港ターミナルが国際線旅客ターミナルビル本館の改修と増築、北側エプロンへの固定スポット8か所分のサテライト増築、立体駐車場の増築、ホテルの新設を内容とする拡張計画に合意した[61][62][63]。また、2012年8月31日、国際線エプロンの増設などの拡充整備による事業契約の変更について、国土交通省関東地方整備局と羽田空港国際線エプロンPFI株式会社が変更契約を締結した[64]。
2014年3月30日、拡張部の一部が供用開始。ターミナルビルはT字状になり、延べ面積は約15万9000m2から約23万6000m2に約1.5倍拡大、固定スポット(搭乗口)が10から18、チェックインカウンターが96から144、出発保安検査場が1カ所から2カ所に増加するなどした[65][66]。
2014年8月28日、拡張部一般エリアが供用開始。イベントスペースや多目的ホール、レストランや物販店などの商業店舗が設けられた。[67]
2014年9月30日、ロイヤルパークホテル ザ 羽田開業[68]。またホテル開業に合わせビジネスジェット専用ゲートの供用が開始された[69]。
C滑走路の延伸[編集]
2009年4月、政府・与党が長距離国際線への対応としてC滑走路を南東(D滑走路側)へ360m延長して3,360mにする方針を固め、追加経済対策に盛り込むこととした[70][71]。これは長距離国際線の輸送力を増強、大型機の離着陸を可能にする施策で、特に深夜早朝時間帯に就航する長距離国際線の大型化が可能となる[72]。2009年度中に着工し、2013年度完成予定であった[73][74]が、用地内の廃棄物対策の検討に時間を要したため事業期間が約1年伸び、2014年12月11日より施設供用開始となった[75][76][77]。
供用開始に伴い、深夜帯の北向き離陸用途として、現在主に使用しているD滑走路に加え、C滑走路の深夜制限も緩和される[1]ため、エアバスA380型機やボーイング747型機などの大型旅客機も、深夜早朝にC滑走路を使用できるようになる。また関連する工事として、34Rに於けるILSの更新も行われ、2015年8月20日よりILSカテゴリーIIIa、2016年1月7日よりILSカテゴリーIIIbが供用開始となる事で、視界不良時の着陸基準が新たに設定された事により、空港機能の冗長性向上が図られた。
国際線の就航状況[編集]
成田空港開港まで[編集]
羽田空港には国内線・国際線ともに就航し、1930年代の開港当初から日本航空輸送や満州航空の国際線が乗り入れていた。戦後は日本の表玄関として、日本航空の国際線ハブ空港となったほか、1964年に開催された東京オリンピックをピークに世界各国からの国際線が乗り入れていた。
しかし、当時の羽田空港の設備では手狭となり、国内線を減便して国際線を運航していたこともあり、東京オリンピック開催後になると羽田空港に代わる首都圏に新たな国際線空港を建設する動きが出始めた。そして、千葉県成田市に首都圏における事実上の国際線専用空港として、1978年5月に「成田空港」の名で知られる新東京国際空港が開港した。なお、この新東京国際空港は2004年4月1日から成田国際空港株式会社法により、同空港を管理する新東京国際空港公団が成田国際空港株式会社に改組・民営化(特殊会社化)され、同時に正式名称も「成田国際空港」に改称し現在に至る。
成田空港開港後[編集]
1978年に成田国際空港が開港すると、中華民国(台湾)の航空会社であるチャイナエアライン(中華航空)を除く国際線定期便は全て成田空港に移り、羽田空港は事実上、国内線専用空港となった。
成田空港が開港しても、チャイナエアラインだけは成田空港には移転せず羽田空港発着となった。この理由は、1974年1月に日本と中華人民共和国の中国共産党政府との間で締結された日中航空協定における予備交渉の席で、中国共産党政府代表団は日中間で航空路線が開設された後も、日本と中華民国との路線を維持することに異議を唱えない立場にあったが「中華民国の国旗(青天白日旗)を付けた中華航空機と同時に乗り入れる気持ちはない」と表明した結果、1974年1月に日本側でまとめた外務・運輸両省案の中で「中国民航は成田空港を使用し、中華航空は羽田空港を使用する。なお、成田空港開港までは暫定的に羽田空港を双方が供用するようにするが、所要の時間帯調整を行う」と定められたためである。
ところが、中華民国政府はこの「外務・運輸両省案」に示された中華航空の社名と機上の旗に関する問題を、「日華(日本と中華民国)の2国間のみの問題」ではなく、中華民国と中共間の問題ととらえ、妥協をすることがなかった。その結果、1974年4月20日を最後にチャイナエアラインによる日本乗り入れが中断された[78] が、翌1975年7月1日の参議院における外務委員会において、宮沢喜一外務大臣が中華民国側の主張に沿った答弁を認める措置を採り、同年8月10日に再開された。しかし、尾翼に描かれていた中華民国の国旗である青天白日旗を塗り潰さなければならないという異常な措置を取ることを余儀なくされた[79]。
成田空港の開港後、羽田空港は都心に近く空港アクセスが良い上、空港旅客サービス料が無料であるほか、国内線との接続が良いなどのプラス面を享受することとなったチャイナエアラインの台北経由便を利用してアジア各国やホノルルへ行く利用者が増加し、同社はこの恩恵を四半世紀にわたり享受することとなる。1989年には中華民国の新規参入航空会社であるエバー航空も羽田空港発着で乗り入れを開始した。2002年には早朝・深夜枠を利用したグアムやアジア各国へのチャーター便の運航が始まったものの、同年4月18日に成田空港のB滑走路が暫定供用を開始したことに伴い、チャイナエアラインとエバー航空は成田空港発着となったが、2010年の再国際化に伴い再び羽田空港に発着するようになった。
定期チャーター便の就航と再国際化[編集]

国際線ターミナルと国内線ターミナル間を結ぶ無料シャトルバス
前述した記事と重複するが、2002年に開催された日韓共催ワールドカップにおいて、羽田空港とソウルの金浦国際空港との間に日韓両国の航空会社がチャーター便を運航した。このチャーター便が好評を博し、翌2003年からは毎日運航され、かつ個人旅客による航空券購入が可能であり、定期便に限りなく近い「定期チャーター便」という方式で羽田 - 金浦便の運航を開始した。その後、同じく定期チャーター便方式で中華人民共和国の上海虹橋国際空港(2007年)、香港国際空港(2008年)、北京首都国際空港(2009年)との航路が次々と開設された。今後は、大連の大連周水子国際空港との間に航路を開設することが計画されており、同国東北部において特に経済発展が著しい大連と東京都心から近くて便利な羽田空港を結び、片道約2時間30分の「日中日帰りビジネス」の構築を目指している。
再拡張事業でD滑走路が完成すると、羽田空港の発着枠は大幅に増加することになるが、増加分の一部は同様の形式で近距離国際線向けとする方針とした。これに対し、横浜市はASEAN地域を含む6000キロ以内を含めるよう主張していた。
国土交通省は2008年5月19日、再拡張事業により2010年にD滑走路が完成すると、羽田空港発着枠が大幅に増加することに伴い、深夜と早朝時間帯に限り国際線の中距離・長距離便の就航を自由化する方針を固めた。また20日の経済財政諮問会議で当時の国土交通大臣である冬柴鐵三は「6時台および22時台に羽田空港からの国際線の就航を可能とし、欧米を始めとした世界の主要都市への国際旅客定期便の就航を実現したいと考えている」と表明した。
国土交通省は、再拡張事業完成による発着枠増加分11万回のうち、昼間における3万回を近距離国際定期便に割り振ることを決めている。同省は、周囲の騒音問題等で成田空港が運用できない午後11時から午前6時まで(リレー時間帯を含める場合は午後10時から午前7時まで)の深夜・早朝には通常の発着枠とは別途、距離に制限が無い3万回が割り当てられ、国際線枠6万回とすることにより成田空港を補完する活用が可能であると判断している。さらに新しい国際線ターミナルが2010年10月に供用開始されたことにより、32年ぶりとなる台湾以外の航空会社の国際線定期便が羽田空港に就航した[80]。
国土交通省の成長戦略会議は2010年4月13日、日本の将来の成長に向けた政策提案の重点項目を公表。その中に羽田空港の国際線発着枠を9万回に拡大し国内・国際線の乗り継ぎ拠点となる「ハブ機能」を強化する、今後、昼の時間帯に段階的に増える発着枠について3万回を国際線に充て、欧米路線の定期便も含めるとの方針が盛り込まれた。2009年9月に国土交通大臣に就任した前原誠司は約11万回増える発着枠の半分程度を国際線に回すとしていたが、さらに3万回程度が上積みされた格好である。一方、成田空港では格安航空会社専用のターミナル新設を計画するなど、格安航空会社の受け入れを強化するとの方向性が示された。
国際航空貨物便の乗り入れも認められ、日本貨物航空が2007年4月に、D滑走路運用開始後の2010年10月末以降の深夜・早朝帯(午後11時 - 午前6時)に貨物定期便を就航させる方針を明らかにしていたが、2009年6月の経営見直しにより、羽田空港への就航を当面見送ることを決定した[81]。2010年12月より香港航空が、定期チャーター貨物便を就航させた。
拡張後の国際線就航協議・合意[編集]
国土交通省と各国の航空当局は2008年7月以降、羽田空港再拡張後の国際線就航について各国航空当局との間で協議・合意が進められていることを下記のように発表している。
2008年
7月 : 羽田空港再拡張後の深夜・早朝時間帯において、日本とマレーシア双方の航空企業がそれぞれ週7便まで就航できる枠組み設定で合意したと発表。
8月 : 同月13日まで開かれていた日韓航空協議で、2010年の羽田空港再拡張後に日韓双方の航空会社が羽田 - 金浦間で1日それぞれ6便計12便の定期便を運航させることなどで合意したと発表。
9月 : シンガポールとの航空協議において、2010年の羽田拡充後のシンガポール・チャンギ国際空港との路線の新設を合意した。
10月 : 2010年10月以降に深夜・早朝枠を利用し、羽田とフランスの首都・パリにあるシャルル・ド・ゴール国際空港との間で、日仏両国の航空会社が1日1便ずつの定期直行便を運航することで日仏両国が合意したと発表。羽田に発着するヨーロッパとの定期路線の復活が決定するのは成田空港開港以来初めてである。なお、日本側の航空会社は日本航空が就航を検討していると報道されている[82][83]。
11月 : 2010年10月以降に羽田とイギリスのロンドン・ヒースロー国際空港との間で、日英両国の航空会社が1日1便ずつの定期直行便を運航することで日英両国が合意したと発表。ヨーロッパとの定期路線の復活はフランスに続いて2カ国目になる。なお、日本側は日本航空と全日本空輸が、イギリス側はブリティッシュ・エアウェイズ とヴァージンアトランティック航空が就航に意欲を見せていると報道される[84]。
2009年
2月2日 : 日本・タイ航空当局間協議の結果、深夜早朝枠で羽田とバンコクとの間に日本・タイそれぞれの航空会社に1日1便の就航が可能とする合意[85]。
2月9日 : 日本・オランダ航空当局と日蘭それぞれの航空会社が週7便で羽田とアムステルダムとの間で就航できるよう合意[86]。
3月19日 : 日本・香港航空当局間協議の結果、羽田の第4滑走路供用開始後、日本、香港双方の企業に対し、羽田の昼間時間帯を使用して双方1日2便ずつ、羽田 - 香港路線の開設を可能とし、成田空港および羽田空港の深夜早朝時間帯と香港を結ぶ便数を旅客貨物の区別なく週70便まで可能とすることで合意したと発表。
4月3日 : 日本・ドイツ航空当局間で、羽田の第4滑走路供用開始後に羽田とドイツを結ぶ定期便を1日2便(週14便)まで運航できる合意をする[87][88]。
4月6日 : 日本・カナダ航空当局間で、日本とカナダ双方の航空会社が羽田空港とカナダ国内の空港(バンクーバーもしくはトロント)との間にそれぞれ1日1便(週7便)まで定期便を運航できる枠組みが設定される。
10月 : 羽田と台北松山空港(台北)との間で定期便を就航させることに向けて合意することを明らかにする[89]。
12月11日 : 日本の対中華民国窓口機関、財団法人交流協会と中華民国側の亜東関係協会は11日、羽田 - 台北(松山)路線の開設などで合意した。第4滑走路の供用が開始され次第、1日に最大8便(8往復)が運航される予定。
12月12日 : アメリカの首都であるワシントンD.C.で開かれていた日米航空交渉の中で、航空自由化(オープンスカイ)協定で合意したと発表。羽田・成田両空港については発着便数に余裕のない混雑空港として、これまで通り政府間の協議で便数を決定するとしている。また、2010年10月の羽田空港再拡張事業完了後の夜間・早朝時間帯について、日米双方の航空会社が羽田とアメリカの空港を結ぶ旅客便の路線をそれぞれ4往復ずつ設定できることでも合意。同協定の枠組みに含まれる「以遠権」も羽田発着便に適用されることになり、アメリカの航空会社は羽田以遠への第3国運航も可能となる。
2010年
4月13日 : エアアジア Xは年内に羽田 - クアラルンプール間就航を表明[90][リンク切れ]。
5月7日 : アメリカ運輸省が、10年秋以降、就航可能になる羽田への路線について、デルタ航空にロサンゼルスとデトロイトの2路線を、アメリカン航空にニューヨーク線を、新規のハワイアン航空にホノルル線を認可したと発表。ユナイテッド航空とコンチネンタル航空も羽田線を申請していたが、いずれも却下される[91]。
5月10日 : シンガポール航空による羽田 - シンガポール線が1日2便就航することを正式発表。
5月19日 : キャセイパシフィック航空が羽田 - 香港線への就航計画を正式発表。
6月5日 : 国土交通省は、日本の航空会社に割り当てられるアメリカ行き路線4便のうち、日本航空に対してサンフランシスコ便とホノルル便の2便を、全日本空輸に対してロサンゼルス便とホノルル便の2便の就航を認可した。これにより、2010年10月以降の航空会社別の国際線運航便数は日本航空が計10路線、1日13便と最多となる[92]。
7月6日 : アメリカ運輸省は、羽田空港 - アメリカ間の直行便計4路線の配分を内定どおりデルタ航空2路線、アメリカン航空1路線、ハワイアン航空1路線に正式決定した。これにより、2010年10月以降の羽田空港 - アメリカ間の航空連合別の直行便数は、日本航空とアメリカン航空が加盟するワンワールドが最多になる[93]。
「羽田空港発着枠#D滑走路供用」も参照
新東京国際空港(成田国際空港)開港以前に就航していた航空会社については、原則として新空港へそのまま移管されているので「成田国際空港」を参照されたい。
今後の整備構想[編集]
地上アクセス整備[編集]
鉄道によるアクセスは東京モノレール羽田空港線と京急空港線の2路線が既に整備されているが、羽田空港発着枠の緩和や2020年に開催される予定の東京オリンピックにより羽田空港の利用客増加が見込まれるため、複数の空港連絡鉄道の整備が計画または検討されている。
羽田空港アクセス線構想
羽田空港 - 東京貨物ターミナル駅付近は新たにトンネルを建設し、東京貨物ターミナル駅付近 - 田町駅付近は休止中の東海道貨物線を活用する。また東京貨物ターミナル駅付近から東京臨海高速鉄道りんかい線に乗り入れ、新木場駅方面および新宿駅方面にも直通する。東日本旅客鉄道が主導する。
浅草線短絡新線構想
都営地下鉄浅草線のバイパス路線として、京急本線泉岳寺駅から東京駅を経由し、京成押上線押上駅を結ぶ。これにより羽田空港 - 成田空港間のスカイライナーによる直通運転が可能になる。東京都交通局が主導する。
蒲蒲線構想
東京急行電鉄の蒲田駅と京浜急行電鉄の京急蒲田駅を連絡し、東急多摩川線と京急空港線を結ぶ。東急線と京急線は、軌間(レールの間隔)が異なるため、直通運転は行わないこととしている。大田区が主導する。
発着容量拡大試算[編集]
都心上空飛行の規制緩和[編集]
2014年6月6日、国土交通省の有識者会議は、現在は騒音問題に配慮して、現在都心の上空6000フィート(約1800m)に制限されている飛行ルートを3000フィート(約900m)以下に規制緩和することを提案した[94][95]。混雑する午後3時〜午後7時の4時間の解禁により年間2.6万回の発着枠拡大が見込める[94]。騒音問題や安全性に懸念があり、実現には自治体や地元住民の理解が課題となる。
A滑走路の南側延伸[編集]
現在、A滑走路とB滑走路は交差しているため独立運用ができず、発着容量を制限する一因となっている。
社団法人日本土木工業協会の空港技術専門委員会が報告した、「羽田空港の利用状況分析と処理容量の算定」[96]では、(現在B滑走路と交差している)A滑走路を南にスライドし、独立運用を可能とすることで、発着能力が43回/時(43.7万回/年)になるとされている。
また、財団法人運輸政策研究機構による「首都圏空港将来像調査」によれば、発着機材の戦略的順序付け等の関係運用の高度化により、発着枠が44.7万回/年、加えてA滑走路の南側延伸で45.8万回/年、さらに旧B滑走路の再活用も加えると47.8万回/年まで、発着容量の拡大が可能である。これに加え、A滑走路北側の東京方面への離陸を実施することで、48.8万回/年まで容量が増加する[97]。
第5滑走路の建設[編集]
社団法人日本土木工業協会の空港技術専門委員会が報告した「羽田空港の処理容量拡大策の検討」[98]によれば、C滑走路の沖側760mにクロースパラレル方式、あるいは1310mにオープンパラレル方式で滑走路を建設した場合、発着能力は46回/時(46.8万回)となる。オープンパラレル方式の場合、大井・青海埠頭のガントリークレーンと第一航路の制限表面の問題をクリアするためにD滑走路と交差するまで南側に寄せる必要がある。そのため、本来ならオープンパラレルのほうがより発着能力が高くなるがD滑走路と独立運用ができなくなるため、クロースパラレル方式とほぼ変わらない発着能力となる。 なお、現行の空域制限が緩和され





pytalovd.com