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投稿日:2015/07/23 16:23

薔薇

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花弁の数による分類[編集]

コクテール(カクテル)(CL) 一重咲き。



つるバラサリー・ホルムズ(CL) 原種を親に持つ、一重咲き。

一重咲き
半八重咲き
八重咲き
花型による分類[編集]

セプタード・アイル(ER) カップ咲き。



アブラハム・ダービー(ER) ロゼット咲き。

平咲き
カップ咲き
ロゼット咲き
クオーター咲き
ポンポン咲き
剣弁高芯咲き
半剣弁高芯咲き
丸弁抱え咲き
花期による分類[編集]
一季咲き
返り咲き
繰り返し咲き
四季咲き
樹形による分類[編集]
ブッシュ(木立性)
シュラブ(半つる性)
クライミング(つる性)
その他、ショートクライマー(小型のつる性)、ロングクライマー(大型のつる性)、ランブラー(つる性の枝垂れるもの)グラウンドカバー(匍匐性)など細かく分類される場合がある。
用途[編集]
現在では鑑賞用として栽培されることが圧倒的に多いが、他にもダマスクローズ(Damask rose)の花弁から精油を抽出した「ローズオイル(Rose oil)」は、香水の原料やアロマセラピーに用いられる。 花弁を蒸留して得られる液体「ローズウォーター(rose water)」は、中東やインドなどでデザートの香りづけに用いられる[4]。 また、乾燥した花弁はガラムマサラに調合したり、ペルシャ料理では薬味として用いる。 日本では農薬のかかっていない花弁をエディブル・フラワーとして生食したり、花びらや実をジャムや砂糖漬けに加工したり、乾燥させてハーブティーとして飲用することもある。
栽培の歴史[編集]
世界[編集]
バラが人類の歴史に登場するのは古代バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』である。この詩の中には、バラの棘について触れた箇所がある[5]。
古代ギリシア・ローマでは、バラは愛の女神アプロディテもしくはウェヌス(ヴィーナス)と関係づけられた[5]。また香りを愛好され、香油も作られた。プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラはバラを愛好し[5]、ユリウス・カエサルを歓待したときもふんだんにバラの花や香油を使用したと伝えられている。
ローマにおいてもバラの香油は愛好され、北アフリカや中近東の属州で盛んにバラの栽培が行われた。クレオパトラと同様にバラを愛した人物に、暴君として知られる第5代ローマ皇帝ネロがいる[5]。彼がお気に入りの貴族たちを招いて開いた宴会では、庭園の池にバラが浮かべられ、バラ水が噴き出す噴水があり、部屋はもちろんバラで飾られ、皇帝が合図をすると天井からバラが降り注ぎ、料理にももちろんバラの花が使われていたと伝えられる。
中世ヨーロッパではバラの美しさや芳香が「人々を惑わすもの」として教会によってタブーとされ、修道院で薬草として栽培されるにとどまった[5]。
イスラム世界では、白バラはムハンマドを表し、赤バラが唯一神アッラーを表すとされた。また、香油などが生産され愛好された。『千夜一夜物語』などやウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』にもバラについての記述がある。
十字軍以降、中近東のバラがヨーロッパに紹介され、ルネサンスのころには再び人々の愛好の対象になった。イタリアのボッティチェッリの傑作「ヴィーナスの誕生」においてもバラが描かれ、美の象徴とされているほか、ダンテの『神曲』天国篇にも天上に聖人や天使の集う純白の「天上の薔薇」として登場する。またカトリック教会は聖母マリアの雅称として「奇しきばらの花」(Rosa Mystica)と呼ぶようになる。
バラの母ジョゼフィーヌ皇后[編集]
ナポレオン・ボナパルトの皇后ジョゼフィーヌはバラを愛好し、夫が戦争をしている間も、敵国とバラに関する情報交換や原種の蒐集をしていた。ヨーロッパのみならず日本や中国など、世界中からバラを取り寄せマルメゾン城に植栽させる一方、ルドゥーテに「バラ図譜」を描かせた[5]。
このころにはアンドレ・デュポンによる人為交配(人工授粉)による育種の技術が確立された[5]。ナポレオン失脚後、またジョゼフィーヌ没後も彼女の造営したバラ園では原種の蒐集、品種改良が行われ、19世紀半ばにはバラの品種数は3,000を超え、これが観賞植物としての現在のバラの基礎となった。
モダンローズの誕生[編集]
ハイブリッド・ティー(HT)系の誕生[編集]
1867年にフランスのギョーがハイブリッド・パーペチュアル系の「マダム・ビクトル・ベルディエ」を母にティー系の「マダム・ブラビー」を交配し「ラ・フランス」を作出し、これがモダンローズの第1号となり、品種改良が一層進むことになった。「ラ・フランス」が冬を除けば一年中花を咲かせる性質は「四季咲き性」といわれ、画期的なものであった。英国のベネットはこれに追随し、ティー系「デボニエンシス」とハイブリッド・パーペチュアル系「ビクトール・ベルディエ」を交配し、「レディ・マリー・フィッツウィリアム」を1882年に作り出し、これを新しいバラの系統として「ハイブリッド・ティー」系と命名した。ベネットの新品種は整った花容から、交配の親として広く利用されていった。
黄色いバラの誕生[編集]
当時のハイブリッド・ティー系には純粋な黄色の花はなかった。そこで、黄色のハイブリッド・ティー系の品種を作り出すことが課題とされた。1900年にフランスのジョセフ・ペルネ=デュシェ (Joseph Pernet-Ducher) が「アントワーヌ・デュシェ」の実生に原種の「ロサ・フェティダ(オーストリアン・イエロー)」をかけあわせて「ソレイユ・ドール」を作出、黄バラ第1号となった。しかし「ソレイユ・ドール」は「四季咲き性」がないので、一層の改良が加えられ、1907年には四季咲き性の「リヨン・ローズ」、さらに1920年には完全な黄色のバラ「スブニール・ド・クロージュ」を完成させた。ドイツのコルデスは「スブニール・ド・クロージュ」の子の「ジュリアン・ポタン」から1933年に「ゲハイムラート・ドイスゲルヒ(ゴールデン・ラピチュア)」を作出した。これが今の黄色のバラの親である。
欧米での品種改良の進展[編集]
コルデスは黄色のみならず、赤バラの改良にも尽力した。1935年に「クリムゾン・グローリー」を作り出し、これが後世の赤バラの品種改良に広く利用されることになる。英国では1912年に「オフェリア」を発表、花容、芳香に優れるだけでなく実をつけ易いことから、多くの品種の親になる。このようなヨーロッパでの品種改良は、第二次世界大戦で中断する。品種改良の中心は、戦火に見舞われないアメリカ合衆国に移る。1940年にラマーツが「クリムゾン・グローリー」から「シャーロット・アームストロング」を作り出し、フランスのメイアンの「マダム・アントワーヌ・メイアン」がアメリカで「ピース」と名づけられ、1945年に売り出された。「ピース」は大きな花をつけることから、「巨大輪」とよばれ品種改良に利用されるとともに、戦後のバラの流行を作り出すことになる。
フロリバンダ系(FL)の誕生[編集]
デンマークのポールセン兄弟が従来ある「ドワーフ・ポリアンサ系」の花を大きくし、北ヨーロッパの寒さに耐えられる品種を作出しようとしていた。1911年にポリアンサ系の「マダム・ノババード・レババースル」とランブラー系の「ドロシー・パーキンス」をかけ合わせ「エレン・ポールセン」を作り出し、続く1924年にはポリアンサ系の「オルレアンローズ」とハイブリッド・ティー系「レッドスター」の交配で「エルゼポールセン」「キルステンポールセン」などを出し、「ハイブリッド・ポリアンサ系」と命名された。これを受けてアメリカのブーナーなどが改良を続け、この系統は「フロリバンダ系」と命名される。さらにドイツのコルデスが1940年に「ピノキオ」を発表した。ブーナーがこれに追随して「レッド・ピノキオ」「ラベンダー・ピノキオ」を発表し、これがフロリバンダ系の完成と言われる。
その後、フロリバンダ系の改良は色の多様性を求めることに重点がおかれ、1944年にはドイツのタンタウが「フロラドラ」、1949年ブーナーが「マスケラード」を、1951年にコルデスが「インデペンデンス」を作出した。新しい系統であるが、「フロリバンダ系」は切花ではスプレーバラとして利用されるため、多くの品種が作り出されることになり、またハイブリッド・ティーとの交配も試みられ、ますます多様性を強めている。





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