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投稿日:2015/07/06 20:44

バリ

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スハルトによる開発独裁の時代に入ると、バリ島はようやく平穏を取り戻す。そして、インドネシア政府の周到な配慮の下、観光による外貨獲得を最大の目的とした観光開発が始まり、1970年代以降、世界的な観光地へと成長することとなった[28]。
1963年、日本からの戦争賠償金によりサヌールにバリ・ビーチ・ホテルが建設され、1966年に開業。1967年にングラ・ライ空港が開港すると、サヌールがバリ島へのマス・ツーリズムの最初のメッカとなった。
ただし、当時のサヌールやクタでは無計画な開発が進みインフラ面でも大きな支障が出ていたことから、ジャカルタ中央政府は新たにヌサドゥアをパッケージ型の高級リゾートとして開発することを決定。日本のパシフィックコンサルタンツインターナショナルが具体的な計画策定を担当した[29]。ただし、当時のオイル・ショックなど世界的な経済不況により開発は進まず、1983年になり、わずか450室の客室とともにヌサドゥア・ビーチが開業した。しかし、その後、ヌサドゥアは世界有数のホテルが林立する一大リゾートへと発展していく。
このようにバリ島の観光開発は長らく中央政府主導で集権的に進められ、観光関連の税収のほとんども中央に吸い上げられてきた[30]。しかし、現地の人々は、このように中央主導によって「創られた伝統」をそのまま受け止めることはなく、逆に自らの伝統の価値に自覚的な関心を持つようになり、画一的なイメージや「観光のまなざし」と向き合いながら、自身の文化を巧みに鍛え上げることにもなった[31]。
1989年に入ると、バリ州政府は、独自に観光開発のマスタープランの見直しを行い、ガジャマダ大学から総合観光村タイプの開発が提唱され、これを採用。ヌサドゥアのような大規模開発とは対極をなす、バリの村の日常的な生活、文化を観光客が体験できるような「観光村」の整備が開始され、2008年現在、プングリプラン、ジャティルイの2村が完成している。
スハルト政権末期には、中央主導による大規模な開発に対する反対の声が強まり、アダットに根ざした環境保護運動となって現れ[33]、1998年のスハルト政権の崩壊後は、1999年の地方分権法を経て、地域自治の動きが強まっている。そして、その動きを加速させたのが、2度にわたるテロ事件である。バリ島は、欧米先進国からの裕福な白人系観光客が集まると共に、異教徒であるヒンドゥー教圏であることから、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降のイスラム過激派による国際テロリズムの格好の標的とされたのである。そして、以下の2度の大規模な無差別テロ事件が発生した。
2002年10月12日 : クタ地区の人気ディスコを狙った自爆テロ。犠牲者202名。詳しくはバリ島爆弾テロ事件 (2002年)を参照。
2005年10月1日 : ジンバラン地区及びクタ地区のレストランを狙った同時多発自爆テロ。死者は容疑者3人を含む23名。詳しくはバリ島爆弾テロ事件 (2005年)を参照。
いずれもイスラム過激派ジェマ・イスラミアによるものとされる、この2度のテロ事件によりバリ島の観光業は深刻な影響を受けることになったが、2007年には過去最高の外国人旅行者数を記録するなど、今ではかつての賑わいを取り戻している。しかし、他方で現地社会では、ジャワ島他からのイスラム教徒の移民労働者の増加に対する社会不安が高まる一方である。
バリ島の地域社会では、バリ・ヒンドゥーに基づく独特な慣習様式(アダット)に従った生活が営まれており、オランダ植民地化以後も近代行政(ディナス)と併存するかたちで続いている[35]。21世紀に入ってもなお、バンジャールやデサと呼ばれる地域コミュニティをベースとして、様々な労働作業(ゴトン・ロヨン)や宗教儀礼が共同で執り行われており[36]、バンジャールからの追放は「死」に等しいとまでされているほどである。
また、バリの人々は、特定の目的ごとに「スカ」ないし「スカハ」と呼ばれるグループを形成して対応することが多い。例えば、ガムラン演奏団、青年団、舞踊団、自警団、合唱団といった具合に、スカはときにバンジャールを超えて形成され、多くはバンジャールと異なり加入・脱退が自由である。こうしたありようをギアツは「多元的集団性」と呼んでいる。





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