お問合せ 削除依頼


画像クリックで原寸大表示
投稿日:2015/07/13 20:38

ラーメン

投稿者 [no name]      
投稿一覧

プロフィール


すべての投稿

トップページ


  

ツイッター、フェイスブックでログインする事により投稿できます



日本で最初に中華麺を食べたのは徳川光圀(水戸黄門)であるとする説がある[15]。1659年(万治2年)に明から亡命した儒学者の朱舜水が水戸藩に招かれた際に、所持品リストに中華麺を作る際に使うものが含まれるから、中国の汁麺を献上したとの記録はないものの、実際に作ったに違いないという。1697年(元禄10年)には、光圀の隠居所である西山荘を訪れた僧や家臣らに中華麺がふるまわれたとの記録もある[16]。この説に基づき復元したものが新横浜ラーメン博物館にある。
日本への伝播としては、明治時代を迎えると神戸や横浜などの港町に中華街が誕生し、そこで提供された南京そばに始まるとされる。1884年(明治17年)に函館新聞(当時)に函館の船場町にある中華料理店養和軒が南京そばを15銭で提供を始める広告を出し、大正の頃まで提供したとされているが、証拠が乏しく当時の関係者もすでに亡くなっているため、養和軒の南京そばが今のラーメンと同種の食べ物であると断言できていない状況である[5]。
1910年(明治43年)には、横浜税関を退職した尾崎貫一が南京町(現・横浜中華街)から中国人コックをスカウトして、東京の浅草にラーメンをメインにした庶民的な中華料理店「来々軒」を開店(当時の来々軒を写した写真には「廣東支那蕎麦 來々軒」「支那御料理 シナソバ、ワンタン、シウマイ、マンチウ」という看板が見える)、味は醤油スープで、1杯6銭(2007年現在で約300円相当)という値段も手頃で連日行列ができる人気は1976年(昭和51年)に暖簾を下ろすまで続いたという。開店当時は手延べ式の麺で、昭和に手打ちとなる[17][18][19]。この「来々軒」の流れを現在に受け継いでいる店は同店で最後に修行した宮葉進が1966年(昭和41年)に千葉市稲毛区に開店した「進来軒」だけとなっている[20][21][19]。
1914年(大正3年)には東京日本橋茅場町の「中国料理 大勝軒」が開店、東京に現存する最古のラーメン店として「シルシルミシル」2009年10月7日放送分のお初店調査で大勝軒の代表取締役本人が1914年創業を明言し、東京のラーメン店のお初に番組認定されている。札幌では1922年(大正11年)、現・北海道大学正門前に仙台市出身の元警察官の大久昌治・タツ夫婦が「竹家食堂」を開店。そこで働く中国山東省出身の料理人の王文彩が作る本格的な中華料理が評判となって店は繁盛し、常連客の北大医学部教授(後の北大総長)の今裕(こんゆたか)の提案で店名も「支那料理 竹家」に改名。麺作りは初めは手で引っ張り伸ばす手打ち製法だったが、客が増えたため後に製麺機になった。なお、竹家のラーメンは中華料理の「肉絲麺(ロゥスーミェン)」を原型としたもので、塩味をベースとしており、メニューの中では中国人留学生には人気があったが、店のメイン料理ではなかった[22]。そこで日本人の口にも合うようにと大久タツが王文彩の後任の料理人の李宏業、李絵堂の2人に相談し、2人はそれまでの油の濃かったラーメンから麺・スープ・具を改良、試行錯誤の末、1926年(大正15年)の夏に醤油味でチャーシュー、メンマ(シナチク)、ネギをトッピングした現在のラーメンの原形を作り出した(ただ、当時の竹家のラーメンは現在の札幌ラーメンとは異なる。)。当時、先述の浅草来々軒でもチャーシュー、メンマ、ネギを入れていたという醤油ラーメンがあり、横浜南京街でも同様の具を入れたラーメンができていたといい、各地で現在一般的になったラーメンの基本型ができていった[15][23]。
1954年には、長崎ちゃんぽんの白濁スープを豚骨スープにして濃厚にした白濁とんこつラーメンの「元祖長浜屋」が開業し、同時期、東京・荻窪では東京ラーメンの「丸長」や「春木屋」が開店[24]。田中角栄の日本列島改造論により「地方の時代」が叫ばれるようになった1971年、京都で「天下一品」が開店、1974年に横浜の「吉村家」が開店し、家系ラーメンが始まる[24]。1990年代に入ると、B級グルメに注目が集まり、東京・環七では夜間営業店が凌ぎを削る環七ラーメン戦争が起こった[24]。地方の名店が東京に続々進出しはじめ、時代はご当地ラーメンから、個人の特色を押し出したラーメンに移行し、のれん分けなどで国内外のラーメンブームを形作っていった[24]。
今日のラーメンの普及には、大きく2つの源流が存在する。1つは、中華街(南京街)などでの中国からの移住者の営む中華料理屋や、戦前の来々軒に始まり戦後は中国や旧満洲国からの引揚者などが開店した日本風の中華料理屋のメニューである。2つは、屋台での販売と、その流れを汲む固定店舗を開設したラーメン屋である。中国でラーメンの調理法を覚えてきた人が多かったのに加え、安い材料で美味しく栄養あるラーメンは、物資が乏しい戦後にはうってつけだった。屋台自体は、古くは江戸時代の固定式屋台の夜鳴き蕎麦屋からの風習にのっとり、調理器具を積んで夜間に商売していた。「ドレミーレド、ドレミレドレー」というメロディーをチャルメラで鳴らして流しの移動式屋台で市中を回る光景は昭和30年代まではよくみられたが、近年はほとんど見られない[3][5][25][26]。
長年に渡り、庶民の味として親しまれてきたラーメンであったが、1996年、中華そば青葉が、魚介系と動物系の出汁を合わせるWスープのラーメンを打ち出したのをきっかけに、スープ料理としてのラーメンの価値が見直され、創作ラーメンブームにつながった。スープの出汁、タレ、香味油、煮玉子などのトッピング、麺と、ラーメンのあらゆる要素について新しい試みを行う料理人と店が次々と現れ、当時、普及が始まったインターネットのサイト上でのラーメンの食レポ、TVチャンピオンのラーメン王選手権が輩出した新世代のラーメン評論家、ラーメン特集を組む情報誌やテレビの情報番組、新横浜ラーメン博物館などとの相乗効果もあり、ラーメンの多様化が一気に進んだ。この流れは現在も続いており、ラーメンは日本料理において最も変化が激しく、多様化された料理形態となっている。





pytalovd.com